あれから1年
「命の授業」の腰塚勇人です
1年前の3月11日
東京の中学校で講演をしている時でした
生徒さんの中から「地震?」
次の瞬間、体育館が大きく揺れ出しました
すぐにおさまるかと思ったらとんでもない
立っていることができないほどの
今までの人生で体験したことのない大きな揺れでした
色々な声が飛び交う中
一番もの凄い音をたてていたのが
天井から吊してあったバスケットゴールでした
「お願いだから落ちてくるな!」
そう思わずにはいられませんでした
いったん揺れがおさまり生徒の皆さんは
隣のグランドに緊急待避
でもまた大きな揺れ
ただただ揺れがおさまるのを待つばかり
自然の前には人間のある意味無力さを感じたときでもありました
と同時に
神奈川の息子は・・・奥さんは・・・親父、お袋は・・・
まさかの時に一番最初に頭に思い浮かぶ人こそ
本当に大切な人だと改めて後になって感じました
校長室に戻り携帯をかけようにも話し中でつながらない・・・
そしてTVをつければその画面からは
津波が街を飲み込んでいき、逃げまどう人や車の映像
そしていとも簡単に大きな建物が壊れていく・・・
今ならば地震=津波と考えることはできても
その時はTVで見るまで津波のことなど正直頭にはなかったです
そしてその津波からの二次的被害である原発問題
チェルノブイリの事故の衝撃と危機感はあったものの
どこか自分の事ではないし・・・
まさかこれほどまでに放射能が怖いではなく
恐ろしいものだと感じたことはありません
でも私自身、津波も、放射能の被害も直接は受けていません
この一年間
何をしてきただろう
何ができたのだろう
祈ること
数回現場に行ったこと
そこで被災された方に自分のできることを
できる範囲でさせていただいたこと
そしてお話しを聴かせてもらったこと
そして今できていること
当日のあの時の事を忘れずに
お亡くなりになれれた方に毎日手をあわせること
被災地に伺ったときの事を忘れず今を生きること
そしてあの時、つながることができた方々と
今でも縁を続けられていること
それぐらいかも知れない
大きな事が何もできている訳ではない
自己満なのは十分、分かっている
でもご縁をいただいたご家族だけでも
自分ができることで少しでも力になれたら・・・
その思いと活動はこれからも続けていく
それと父・母を含めた自分の家族を守っていく
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りすると共に
今ある命、大切な人のためにできる限り
使っていこうと改めて思えています
今、生かされ生きていられることに
感謝を込めて
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